「匠の記憶」第15回 太田裕美 ディレクター(デビュー当時) 白川隆三さん

筒美京平・松本隆の黄金コンビによる「木綿のハンカチーフ」をはじめとする名曲の数々によって、日本ポップス史に輝かしい足跡を残す太田裕美さん。その初期オリジナルアルバム4タイトル(『心が風邪をひいた日』『12ページの詩集』『こけてぃっしゅ』『ELEGANCE』)と、70~80年代のシングルA面コレクションのハイレゾ配信がスタートしました。今回moraではディレクターとしてデビュー当時から制作に携わり、その後アニプレックス会長などを歴任した白川隆三さんにインタビュー。なぜ「太田裕美」のもとには素晴らしいクリティブチームが集まったのか? 彼女のシンガーとしての唯一無二の魅力とは? 時代を追うようにして、実際に楽曲を聴きながらお楽しみください。(mora readings編集部)

 


 

インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

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取材・文/馬飼野 元宏

 

――白川さんが、太田裕美さんと出会う前のキャリアからお話いただけますか。

白川 僕は1968年にCBSソニーが創立された際の、創業社員のひとりです。最初は名古屋でセールスの仕事に携わり、その後、当時六本木にあった本社の販売推進課という部署で邦楽を担当していました。それまでソニーは、サイモン&ガーファンクルの大ヒットのおかげで洋楽先行の会社でしたが、僕が販売推進課に移った頃は、ピーターの「夜と朝のあいだに」やにしきのあきらの「空に太陽がある限り」がヒットして、そのあとは南沙織、郷ひろみ、浅田美代子、山口百恵と邦楽から次々とヒットが生まれて、吉田拓郎(よしだたくろう)も当たって、邦楽が破竹の勢いになりました。それで僕は制作に回ったんですが、ソニーでは営業から制作に移ったのは僕が最初なんです。

――最初に手がけたレコードは?

白川 先輩の酒井政利さんのアシスタント・ディレクターとして、ルネ・シマールを担当したり、洋楽セクションからの依頼でスリー・ディグリーズの「にがい涙」などをやっています。でも、最初に一から手掛けたアーティストは太田裕美さんです。

――太田さんとの出会いはどういう形でしたか。

白川 渡辺プロダクションからの紹介で、「いい新人がいるから一度見てよ」と言われて、当時ナベプロが経営していた「メイツ」という銀座のライブハウスで、彼女が歌っているのを見たんです。その時はたしか小坂明子の「あなた」を歌っていた記憶があります。

――太田裕美さんの、ピアノ弾き語りというスタイルは、小坂明子さんのイメージが念頭にあったのでしょうか。

白川 そうですね。デビュー曲の「雨だれ」を作るにあたっては小坂明子と高木麻早、その2つのイメージが強くありました。それに、僕はユイ音楽工房の後藤由多加さんたちとも親しかったので、太田裕美さんは、歌謡曲とニュー・ミュージックの中間でやっていこうと思ったんです。

――作詞の松本隆さん、作曲の筒美京平さんの起用については。

白川 筒美先生は、それ以前に『筒美京平の響』というインストゥルメンタルのアルバムの制作をお手伝いしたご縁で、唯一面識のある作曲家でした。しかも天才で、超売れっ子の先生ですから、僕がディレクターとして一本立ちするときには相談に行こうと思っていたんです。それで新人・太田裕美さんのデビューをお願いしたら快く引き受けてくださいました。松本隆さんは、筒美先生が推薦されたと思います。松本さんはチューリップの「夏色のおもいで」と、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」でいい作家だなと思っていたし、何より筒美先生は、人の才能を見抜く天才でしたから。

――アレンジの萩田光雄さんについては。

白川 それも筒美先生の提案だったと思います。偶然ですが、萩田さんはヤマハの出身で、高木麻早のアレンジを手掛けていたし、ほかにもヤマハのアマチュア作品をアレンジして、ちゃんとした楽曲に仕上げる仕事をされていたので、僕の思っていたコンセプトにぴったりはまる人でした。

――では、デビュー曲「雨だれ」を聴いてみましょう。

 

♪ 雨だれ

 

白川 この頃、太田さんは19歳ぐらいですか。声が若いですね! こうして聴き直してみると、筒美先生は最初から太田さんの声の特徴をよくつかんでいますね。地声から裏声に変わるところに、ちゃんと曲のピークを持ってきている。最初からそれができるってすごいことですよ。

――「雨だれ」は曲先で作られたと聞いていますが。

白川 そうです、「夕焼け」までのシングル3曲はすべて曲先でした。それにしても、デビューしたのが74年の11月で、翌75年はシングル3枚に加えてアルバムも3枚出していて、しかも全部コンセプト・アルバム。いわゆる「曲が余ったからアルバムを出そう」という作り方ではなく、まずコンセプトを立ててからオリジナル曲を作ってもらうというやり方でした。当時、歌謡曲でそんなことをやっている人はいませんでしたよ。

――アルバムをコンセプチュアルなものにしたい、という発想はどこから出てきたんですか。

白川 やはり、同じソニーで拓郎さんを見ていたことが大きいですね。当時からフォークやニュー・ミュージックの人はアルバム重視で、それだとシングルの売り上げに左右されずにアルバムが売れるし、その時代の、そのアーティストの主張や表現がアルバムに投影されるんです。だから太田さんもコンセプト・アルバムを作ったほうがいいと思っていました。僕も若かったし、最初に手がけるアーティストだから粋がっていた部分もあったのかもしれません(笑)。

――その75年の最後に発売された太田さんの3枚目のアルバム『心が風邪をひいた日』ですが、これは代表作となった「木綿のハンカチーフ」が収録されていますね。

 

心が風邪をひいた日

 

白川 このアルバムは、松本さんが主にコンセプトを作りました。「木綿のハンカチーフ」は詞先でしたが、当初、そのアルバムの中の1曲として作ったもので、シングルほど細かくチェックせず筒美先生に詞を渡したんです。

――筒美さんは渡された詞をみて、長過ぎると思われたそうですね。

白川 それで困って僕や松本さんに詞を短くしてもらうよう探したんだけど、僕は、拓郎さんの歌で有名な原宿の「ペニー・レイン」で飲んだくれていて(笑)。結局誰もつかまらずに、しょうがないから曲をつけたら、意外に上手くはまって、次の日に渡してくれました。今みたいに携帯がある時代だったら生まれることのなかった名曲ですね。それで、この曲をカセットに入れてプロモーションの人たちに聴かせたら、みんな「この曲、シングルにならないの?」って言うんですよ。それまでの3曲が弾き語りで地味なイメージがあったから、あまりの評判の良さに、じゃあシングルにしましょう!となったんです。

――「木綿のハンカチーフ」はシングル用にあらためてアレンジされていますね。

白川 シングル・バージョンでは弦が動き回って、フルートとコーラスも加わっています。元のアレンジは萩田さんですが、その部分は筒美先生が足したんです。一番の悩みは詞の長さで、何とか短くしようと頑張りましたが、取る場所がないので、結局そのままです。

――この曲のヒットで、太田裕美さんもまた新たな方向性が生まれたのでは。

白川 それまでの弾き語りとは違う色が出ましたね。メジャー・コードで明るいメロディーだけど、でも詞は哀しいです。それは、もっとも高級な歌だと思う。それにしても、当時は発売から40年も経って残る曲になるとは、僕は思っていませんでした。世の中、いろいろな曲がいっぱいあるのに、この曲はカラオケでも未だに人気ですし、「心に残る歌」といったアンケートでも必ず上位に来るのは不思議な気がします。

――この曲を収録したアルバム『心が風邪をひいた日』には、荒井由実さんが作曲した「袋小路」「ひぐらし」など、筒美京平さん以外の作家陣も参加しています。

白川 松本さんからの提案でした。ほかにも「青春のしおり」では佐藤健さんなど、アルバムのコンセプトを松本さんが作ったので、作家陣も彼のよく知っている人が参加しています。

――では「袋小路」を聴いてみましょう。

 

♪ 袋小路

 

白川 この曲のピアノはハネケン(羽田健太郎)です。それにしてもこれは名曲。ユーミンは大したものですね。こうやってハイレゾで聴いてみると、筒美京平さんの世界がある中で、ユーミンの曲になると空気感が変わるんですよ。やっぱり山手のドルフィンの世界に連れて行かれますね。

――「青春のしおり」にはウッドストックやCSNYという単語も出てきます。これは太田裕美さんの青春というより、松本隆さんの青春という気もしますが。

白川 そうですね、彼の青春とダブっていて、とても時代を感じさせます。そういう内容を太田さんに仮託していくことが、彼がプロデュースする意味でもある。それは、とてもいいことだと僕は思います。その「青春のしおり」に出てきますが、青春とはいつも心に風邪をひく季節である、というのがアルバムのテーマで、青春とは夢を追いかけて失敗を繰り返すこと、それを「風邪をひいた」という表現にしているんです。

――この頃の太田裕美さんの楽曲は、演奏メンバーはどなたでしたか。

白川 一番多かったのはドラムが田中清司、ベースは岡沢章、キーボードはほとんどハネケンで、ギターが水谷公生か矢島賢。当時のベスト・メンバーですね。ストリングスは多グループで、そのあとトマトになります。何しろ筒美先生の曲や萩田さんのアレンジは、凝っていて、仕掛けがたくさんで難しいので、このメンバーじゃないとなかなかできないです。インペク屋さんも、筒美さんや萩田さんの曲だとわかると、自然とそういうメンバーを集めてくれる。

――アーティスト色という意味では、アルバムにはほぼ必ず1~2曲、太田さんの自作曲を収録していますが。

白川 彼女をシンガー・ソングライターとして育成していくこともあったし、アーティストとしての主張もそこに入れられるから、ファースト・アルバムから収録しています。これが良いんですよ、素直な曲で。

――「木綿のハンカチーフ」が大ヒットした76年は、年末に『12ページの詩集』というアルバムを発表しています。これはフォークやニュー・ミュージック系の作家を集めたコンセプト・アルバムでしたね。

 

12ページの詩集

 

白川 僕は阿木燿子さんや喜多條忠さんとは仲が良かったし、ユーミンも郷ひろみのアルバム『HIROMIC WORLD』で丸ごと1枚荒井由実=筒美京平という組合せをやったことがあるので。平山三紀の「やさしい都会」など、僕はユーミンと京平さんの組み合わせを結構やっているんです。『12ページの詩集』では曲も書いてもらいました(「青い傘」)。あと、正やん(伊勢正三)の「君と歩いた青春」は好きな曲でした。女々しい男の歌ではありますが(笑)。

――今、太田さんと伊勢さんは「なごみーず」で全国を回っているのはこの曲が縁でしたね。

白川 もう1000回近くライブをやっているじゃないかな、素晴らしいことですよね。「君と歩いた青春」は、太田さんが休業してアメリカに渡る直前に、もう一度レコーディングしてシングルとして発売したんです。この曲と、松本さん=筒美さんのフィナーレとしての「振り向けばイエスタディ」は、区切りの曲ということです。

――1977年の夏に発売されたアルバム『こけてぃっしゅ』について伺いますが、ここまでの太田さんはどちらかというとニュー・ミュージックでもフォーク寄りの匂いがありましたが、この盤でいきなりシティ・ポップになりましたね。

 

こけてぃっしゅ

 

白川 それはシングルを切った「恋愛遊戯」のせいだと思います。ちょっと聴いてみましょうか。

 

♪ 恋愛遊戯

 

――フルートの音色も涼しげなボサノバですね。しかも主音で終止しないメロディと、時代的にはちょっと早かったのでは?

白川 おしゃれでいい曲ですよね。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の影響が完璧に入っている。ギターの音色などそれっぽいでしょ? 西海岸サウンドに行っちゃってますね。でもこの時代にこういう曲はなかなか売れないよね(笑)。周囲の関係者には随分反対されましたけど、でもたまにはこういうのもいいんですよ。

――このアルバムからは「九月の雨」がシングル・カットされていますね。

白川 これは、元々シングル用に作ってもらった曲です。これが売れたので名誉挽回しました(笑)。『こけてぃっしゅ』は全体に西海岸サウンドですが、「九月の雨」だけはABBAですね、北欧に行っちゃった。これは名曲ですが、声を張る部分が多いから、テレビで歌うときは辛そうでしたね。

――この路線をさらに突き詰めたのが、78年の『ELEGANCE』でした。

 

ELEGANCE

 

白川 これは一番好きなジャケットです。写真は田村仁さんですが、凄くいいですね。彼の写真は色濃くて、完全に田村ワールドになっちゃていますね。太田裕美はジャケットや歌詞カードも凝って作っていたんですが、名盤といわれる『心が風邪をひいた日』だけは、歌詞カードに蝶々や花をあしらって植物図鑑みたいにしちゃったんです。この間、太田さんに「あれは白川さんがやったんでしょ」って責められたけれど、僕にはまったく記憶が無い。なんでこんなセンスのないことをしたんだろう(笑)。

――『ELEGANCE』は、松本さんの描く女性も少し大人っぽくなって、サウンドも多彩になりました。この中ではファンの人気も高い「ピッツア・ハウス22時」を聴いてみましょう。

 

♪ ピッツア・ハウス22時

 

白川 この曲は名作ですね。「木綿のハンカチーフ」からずっと続いている男女の会話スタイルで、2番、3番と進むうちにバックもだんだん盛り上がっていく。この曲はよくステージでもやっていましたよ。歌い出しのア・カペラはバンドコーラスにして。あと「煉瓦荘」は「袋小路」みたいな世界の続編をやろうとしたんじゃないかな。「天国と地獄」はクラシックかオペラの何かがモチーフにあったと思います。このアルバムに入っているシングルは「ドール」でしたか?

――そうですね。「青い目の人形」というか、太田裕美さんらしい世界です。

白川 百恵さんみたいな曲調ですよね。この曲もそうだけど、アルバムにシングル曲を入れるとき、僕はA面の1曲目に置くことはほとんどしていないんです。歌謡曲のアルバムは大抵シングルのタイトルをそのまま付けることも多かったし、当然A面1曲目がシングルだったけれど。「ドール」は僕も好きな曲で、ドラマ的というか物語っぽい世界をやったんです。

――筒美京平さんのメロディーも、「雨だれ」の頃より構成が複雑になっていますね。

白川 そうですね、それぞれに良さはありますが。この頃の筒美先生は、裕美さんだけでも大変なのに、ほかにも岩崎宏美に書いて、郷ひろみに書いて、曲だけでも相当な数を書かれていましたから。超忙しい時期でしたね。

――白川さんが担当されていた方では、この頃、中原理恵さんが松本隆=筒美京平と、太田さんと同じ組合せで作られていました。

白川 理恵さんは、太田裕美さんでやっていたコンセプト・アルバムの極致を行ったんです。何しろデビュー・アルバムにシングル曲が入っていないんだから(笑)。

――78年の暮れには、初のロサンゼルス録音『海が泣いている』(※)を発売します。先ほど名前の出た「振り向けばイエスタディ」は、ここに収録されています。

白川 松本さん、筒美さんと3人で話しあって、ここを1つの区切りにしようということになったんです。4年間ずっとみんなで頑張ってきたから、最後に海外録音をご褒美にやらせてください、と会社に進言して、決定したプロジェクトでした。「海が泣いている」(※)と「街の雪」(※)はいい曲ですよね。「街の雪」は弦のアレンジがジミー・ハスケル、ギターはリー・リトナーだし。レコーディングにはみんなで行きましたが、滞在はバラバラで、僕はみんなが帰った後に1人でミックスダウンをして、大変だった思い出があります。それにしても、ここまで4年ですが、リリースは完全にアイドル並みのペースで、もう10年ぐらいやっていたような気がしました。それだけ濃密な仕事だったということですね。

――さて、松本隆=筒美京平の手を離れての新生・太田裕美の第1弾シングルが「青空の翳り」。作家陣が総入れ替えとなって、この曲の作詞は来生えつこさん、作曲は浜田金吾さんでした。

白川 この曲は好きです。またピアノ弾き語りに戻ったのも、第2期の太田裕美のデビューという意味もありました。この頃からアルバムにはシングル曲を入れなくなったんですが、もう少しコンセプト・アルバムとして成立させたいという思いもあって、よりニュー・ミュージック的な世界に近づけたほうが、アーティスト生命が長くなるんじゃないかと思っていたんです。シングルの売り上げだけで右往左往するよりはね。

――この時期は前半が浜田金吾さん、後半は「南風」「黄昏海岸」など網倉一也さんが太田さんのメイン・ライターになっていきますね。

白川 彼らはみんな、同じ事務所にいて、仲間だったんです。アレンジの戸塚修さんも『心が風邪をひいた日』で起用した佐藤健さんもそうだったと思います。みんな気のいい人たちで、音楽的にも太田裕美にすごく合う。そんなこともあって、随分とお願いしました。

――79年の秋には、遂に太田さんの自作曲「ガラスの世代」がシングルのA面に起用されましたね。

白川 やっぱり、ずっと自作曲を作ってきて、ある程度はシングルになるような曲も書いてもらわないと。シンガー・ソングライター的なところに近づけたほうが、音楽活動も安定するんですよ。彼女が今でもライブをやれているのは、そっちに寄っていたことも大きいと思います。当時のアイドルで今でもライブを続けている人は少ないですからね。

――白川さんが手がけた時期の太田裕美さんで、後期の代表作といえるのが「さらばシベリア鉄道」でした。これは大瀧詠一さんが『A LONG VACATION』を制作中に、この曲を「太田裕美に歌わせたらどうか」と提案したのがきっかけだと聞いていますが。

白川 これははっきりと覚えています。大瀧さんが『A LONG VACATION』の歌入れをしていた信濃町のスタジオから僕の自宅に電話をかけてきて、「今から曲を聴かせるから」と電話越しに歌を流して、僕も「いいんじゃないか」となったんです。彼の録音は、オケ録りにはディレクターも立ち会うけれど、歌入れの際は1人でスタジオにこもっちゃって、誰も中に入れないんです。自分でマイクを立ててミックスしながら歌っているらしく、完全にクローズ状態なので、僕はスタジオに居てもやることがないから自宅に帰っちゃうんですよ。

――それで電話越しに曲を聴かされることに。

白川 それで太田裕美さんが歌うことが決まったけれど、その後が大変で。というのも『A LONG VACATION』は朝妻一郎さんのフジ=パシフィック音楽出版が制作費を出していたんですが、太田さんが歌うなら、渡辺音楽出版も原盤権、出版権に関わってくるので、その辺の調整が大変でした。今でこそ『A LONG VACATION』は大ヒットアルバムですが、当時の大瀧さんのナイアガラはそんなに大きなセールスをしていなくて、このアルバムも、せっかくソニーに移籍したのだから3万枚以上は売ろう、と言っていたぐらいです。でも、結果的に大ヒットして太田さんは得しましたよ。この曲があることで、また1つハクが付きましたから。

――では、その「さらばシベリア鉄道」を聴いてみましょう……太田さんのバージョンは萩田光雄さんの編曲ですね。

 

♪ さらばシベリア鉄道

 

白川 大瀧さんは自分のアルバム作りで忙しいので、じゃあ萩田さんにお願いしましょうと僕が提案しました。

――太田さんと大瀧さんでは符割が異なっていますが、どういう経緯でこうなったんですか?

白川 太田さんのほうが先に世に出たので、たぶん大瀧さんが後からの自分の歌入れで変えたんだと思うけど、正確にはその時のデモテープがないとわからないなあ。僕は太田さんの歌入れにはすべて立ち会っていますが、彼女は譜面的には完璧な人なので、勝手に自分で符割を変えたりすることはないんです。だから後から大瀧さんが変えた、と僕は思っているんですが。

――次のシングル「恋のハーフムーン」も再び松本隆=大瀧詠一の組み合わせでしたね。

白川 「さらばシベリア鉄道」も評判になって、『A LONG VACATION』も完成してこちらも好評で、パワー・スイッチが入っちゃっていたので、じゃあもう1曲お願いします、ということでした。でも、あの曲はスタジオでオケを録るのが本当に大変でした。物凄く時間がかかっているし、演奏も分厚くて豪華だし。でもみんな気合が入っていて、パワフルだったので作れたんだと思います。

――この曲をテレビの歌番組で歌う際、バックが全然違うので驚いた記憶があります。

白川 あれを歌番組でやるのは、そりゃ大変ですよ、できないよ(笑)。

――最後に今回、太田裕美さんのシングル・コレクションと70年代後半のアルバムがハイレゾでリリースされることについて、あらためてご感想をお願いします。

白川 こんなことを言うのも変ですが、太田裕美の曲は、例えばソニーの他のアーティストと聴き比べても、音が違うと思いませんか? 実は僕、ほとんど社内のミキサーを使った経験がないんですよ。デビュー曲からメインエンジニアは東芝の行方洋一さん、あとは内沼映二さんも時々お願いしました。そこは僕のこだわりでした。70年代後半はアナログ録音が技術的なピークにあった頃で、ある意味もっとも贅沢な時代のサウンドですから、やっぱり今聴くならこうやって音を良くしてあげたいですよね。ハイレゾで聴くことで、その時代のいい音を再現できるのは嬉しいことだと思います。

 

70’s~80’s シングルA面コレクション

 

 

通常音源も一斉配信開始!

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プロフィール

白川 隆三(しらかわ・りゅうぞう)

1968年、CBSソニーの創業と同時に入社。1982年、制作部 邦楽制作部門の部長に就任し、以後、宣伝部、映像制作部の部長を歴任。
その後、エピック・ソニー 統括副部長兼宣伝部長、ソニー・ピクチャーズの取締役常務を経て、1997年にはSPE・ビジュアルワークスを設立。代表取締役社長に就任する。
同社は2003年4月にアニプレックスに社名変更し、取締役会長に就任。
2004年の定年退職後は、九州大学ユーザーサイエンス機構特任教授、福岡女学院大学表現学科非常勤講師などを歴任。